戸隠竹細工

竹細工の話

戸隠に伝わる竹細工は、山に自生する2メートル前後の細い竹で作られる。

この竹は、和学名をチシマザサと言い、標高約1,000メートル付近以上で積雪地に自生する、多くは本州北部の山間部、北海道に分布している、根元の付近から曲がっているため地元では根曲竹と呼ばれている。

(雪の重みや斜面に出るので曲がるのではなく、雪の重みをいなす為に斜めに生え成長と共に上に伸びる為根に近い部分が曲がる。)

竹に関する記録

慶長8年(1603)信州松代藩十八万石。藩主は、森忠政から徳川家康第六子、松平忠輝に代わった。当時、忠輝は十四歳と弱年だったため、大久保長安が後見役となり藩政の補助を行った。

長安は、佐渡金山の開発や初期総代官などを勤め民政にも明るく、家康は彼の手腕を高く評価していた。

着任草々の翌9年7月に長安は戸隠権現に、二百石を寄進し、又同8月には領内視察に戸隠を訪れた。

この際、人夫として案内を務めた、中社の徳武利左衛門が、戸隠から越後街道沿いの領内の山に豊富に自生する竹を中社住民の生活資源のため自由に伐採出来ることを請願した、これを受け高冷地で全く水田が無い戸隠の状況にこの竹を、形式的な年貢として納めることを条件に伐採を許可した。

最初は松代や善光寺に原竹のまま売られていたが江戸の後期になり簡単な細工が行われるようになった。

明治以降、生糸が国の主要産業となり、堅牢な竹細工は種々の蚕具として需要が高まり、生産が追いつかないほどの好景気を経験した。この頃組合組織が確立し戸隠の竹細工の手法が完成され、その後衰退期を経て現在に至っている。(今でも養蚕に感謝する意味で「蚕祭り」を4月3日に行っている。)

筍は採取禁止

竹は、細工する物や使う場所によって使い分けるため、切出しの時に良く選別され、必要な量だけが伐採される。一日約6束から9束(一束約50本~130本)を切り出して「決して乱獲はしない」と言うのが、昔からの約束事だという。(採取時期、若竹「わかだけ」は9月12日より「現在は11日」、造竹「つくりだけ」は10月~11月雪が降るまでの間)竹の伐採は、主に国有林に伐採の権利を借りて行われており、国有林の伐採、植林の度に竹薮は切られ年々竹の採取は難しくなってきたようだ。「現在は竹細工の森を設定」

大切な資源保護のため、春のタケノコの時季には「筍番」を行っている。(この時期職人は神経質になっているので注意が必要)戸隠の保護区域での筍採りは、ご法度なので特に注意してほしい。

機能美と堅牢さ

このように切り出された竹は、表面を磨かれ、正確に四つ割りされ、更に皮と身の部分に分けられる、細工には主に皮の部分が使われ工程を経て堅牢でしなやかな「竹」へと仕上げられる。

編む段階は当然ながら、材料を作る工程でも竹の持つ、復元性等を良く理解し、無理な部分がないよう、入念な作業が必要とされ、やはり相当の熟練度が求められる。

様々な工芸品がある中で材料の仕入れから仕上げまでを一貫して一人の職人が行うことは数少ない例である。 始めから道具として発達した戸隠の竹細工は、手入れさえ怠らなければ、長年使用できるものである。

又、生活の知恵のなかから生まれ工夫され、鍛えられた竹細工は、本当に民芸品と呼ぶのにふさわしいものである。

現在では戸隠そばの人気に伴い、そばざるなどは全国的にも知名度が高い物となりその他の製品も、戸隠を訪れる人々のみやげ物や必需品として人気があります。

現在

戸隠竹細工

昭和58年10月14日「長野県知事指定伝統的工芸品」を受ける。

平成17年6月7日に地元伝統工芸品である竹細工継承の為、材料であるネマガリダケの安定確保を図る目的で北信森林管理署と中社竹細工生産組合との間で「戸隠竹細工の森」を設定し竹の保護育成を図る事とした。

参考資料 戸隠村誌・戸隠譚・中社竹細工生産組合

竹細工店

原山竹細工店

戸隠竹細工

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信州戸隠そば処仁王門屋